********************************************************************** セッションs5c テーマ:デスマーチはなぜなくならないのか――社会学の視点がもたらすブレークスルー 講師:宮地弘子(杏林大学) 日時:2017/8/25 14:30-15:40 参加人数:約30名 ********************************************************************** ■講演 【趣旨】 社会学の観点からデスマーチについて考え、何か問題に直面した際の道具・引き出しとして頭の片隅に置いておけるような知識を得て帰って欲しい。 【目次】 Section1 アイスブレーク:関心の共有 Section2 社会学という道具――銀の弾丸はないけれど Section3 事例調査から:ある現場の「デスマーチ」問題を社会学的視点から読み解く Section4 社会学の視点がもたらすブレークスルー Section5 ディスカッション:一括りにできない難題だからこそ 【参加者の講義への参加動機】 * コンサルタントとして、クライアントへの傾聴の手がかりにしたい * 時代にともなって変化している最新のデスマーチをキャッチアップしたい * 誰もが避けようとしても避けられないデスマーチ発生のメカニズムを知りたい 【講師のバックグラウンド】 幼い頃から両親の影響でマイコンやパソコンが趣味になっていった。 趣味がそのまま仕事になり、ソフトウェアのベンチャーに就職した。 転職や年が進むにつれて、仕事のペースを落とそうとしたが全く落とせない。 エンジニアが全力疾走を止められない現象について、「なぜか?」を考えるため大学院に入り、社会学研究の道に進むことになった。 【対象とするデスマーチ】 PC向けのソフトウェアを開発するベンチャー由来の現場における、「自発的全力疾走型デスマーチ」を対象とする。 ※「デスマーチ」現象を決して一括りにすることはできない 【社会学とは?】 社会秩序(集団現象)生成のメカニズムを問う学問。 「デスマーチ」もひとつの社会秩序(集団現象)と捉えることができる。 監獄に閉じ込められているわけでもなく、各々の考えに従って自由にふるまうことができるソフトウェア開発者が、いかにして揃いも揃って「死の行進」に巻き込まれていくのかということは、極めて興味深い社会学的命題。 【社会学的アプローチの役割】 社会学的アプローチの役割は、ハウツーを追及する実務・実践の領域と一線を画す。 しかし対立するものではなく、相互補完的な位置関係にあると言える。 例: 臨床(病をどのように治療するか):実務・実践 病理(病はいかにして人体を侵すのか):社会学的アプローチ ※日本では、実務・実践の領域と社会学的アプローチの連携に課題がある 【エスノメソドロジーという考え方】 エスノメソドロジー( Ethnomethodology ) 米国の社会学者 H・ガーフィンケルによって創始された社会学の一派。 「秩序はすでにそこにある」という考え方。 社会秩序は、社会学者が「高所」や「外部」から発見・説明するまでもなく、すでにその社会の人々の相互行為(interaction)によってつくりあげられていることに着目。 だとすれば、現場に入りこみ、問題とされる秩序をつくりあげている人々の方法論(エスノメソッド)をつぶさに観察・記述することが、問題発生のメカニズムを明らかにすることにつながるはず。 一括りにできない「デスマーチ」の現実を捉えながら、それが「なくならない」メカニズムを明らかにする一つの方法となり得る。 【事例調査】 大手外資系ソフトウェア開発企業X社の例 会社プロファイル: * PC向けのパッケージソフトウェア開発が主力業務 * 数人~50人のチーム体制 * 女神の面:日常・勤怠・作業における徹底的した自由 * 死神の面:残業・休日出勤は当たり前 →「自発的全力疾走型デスマーチ」の良い事例 プロジェクトD(2000年代前半):グローバルに展開する製品に小規模なアドインを付加するプロジェクト * 要件:携帯電話とPCアプリケーションのデータ同期 * 困難な香りがしていた:タイトな計画で極めて少人数なチーム構成 * 結果的にデスマーチとなり、Aさんが"燃え尽き"となってしまった 仕様策定フェーズ: 要件や期間・人数を不安視する声は上がらず Aさん「無理だとは思っていたが、言い出せなかった」 → Aさんのエゴが問題? →(相互行為に着目)この現場における「正しい」ふるまいだったからこそ、無理の黙認が通った 実装フェーズ: バグが右肩上がりに増え続ける Aさん「深刻化していく進捗を絶対に公開せず、どこまでも仕事を抱え込んだ。なぜなら、同僚のBさんと仲が悪くなっていたから」 → 人間関係?被害妄想? →(相互行為に着目)この現場における「正しい」問題解決策だったからこそ、仕事の抱え込みが成立した 試験フェーズ: バグは一向に落ち着く気配がなく、危機的状況に Aさん「自分一人なんとかすると宣言した」 → Aさんの自己責任? →(相互行為に着目)他者に助けを求めないことがこの場における「適切な」危機対応策だったからこそ、Aさんの宣言が通った 節目節目の相互行為を通して、無理を黙認したり仕事を抱え込んだりするAさんの行為に、「正しい」「適切」という意味が与えられていた! 【言葉や行為に意味を与える背景(場)】 言葉や行為そのものには意味がなく、背景(場)が意味を与える。 例: きつね・たぬき:動物園?うどん屋? 【背景(場)の正体=常識】 無理の黙認や仕事の抱え込みに「正しい」「適切」という意味を与えていた背景(場)の正体は、常識。 社会レベルの常識:日本の「滅私奉公」の美学 セグメントレベルの常識:組織の力ではなく個人の力に絶対的信頼を置く常識(それが常識としての地位を獲得してきた歴史的経緯あり) 【社会学の視点がもたらすブレークスルー】 「デスマーチ」はなぜなくならないのか? 「デスマーチ」と呼ばれる現象は、複数レベルの常識を背景として、無理の黙認や仕事の抱え込みといった行為に「正しいふるまい」「適切な問題解決策」という意味が与えられることによって生起していた。 「デスマーチ」と呼ばれる現象が発生し、存続しているところには、それを「正しいこと」「適切なこと」として意味づけるメカニズムが必ず存在する! 無理の黙認や仕事の抱え込みが現場の誰にとっても「おかしなこと」「不適切なこと」であれば、そもそもそれらの行為は成立しないはず。 【変化の契機】 「デスマーチ」と呼ばれる現象がすでに「ここ」にあり、続いている以上、「できていないこと」を実現するというよりも、むしろ、「(当然のように)やっていること」の問題性に自覚的になることが、変化をもたらす契機となるはず。 「当然のようにやっていること」の問題性はどうしたら自覚できるのか。 方法1:大きな事件に直面する 「当然のようにやっていること」の問題性は、たとえば電通事件のように、 人が亡くなるなどの大きな事件が発生し、明確な異議が申し立てられたときに露わになる。 方法2:「あたりまえ」を疑う 「違和感」や「不快」「怒り」を覚える意見や選択肢に直面したとき、それを即座に切り捨てず、そのような解釈を支えている自分自身の常識を疑ってみることが、人が亡くなったりする前に「当然のようにやっていること」の問題性を自覚する契機となる。 【我々一人一人にできることは何か】 不変の常識は存在しない。例えば、「リゲイン」のCMに象徴される日本独特の「滅私奉公」の美学も、少しずつではあるが確実に変化してきている。 その原動力は、「当然のようにやっていること」の問題性への気づきの積み重ね。 我々一人一人の力は、決して小さくない。 ■ディスカッション 例1: 流用開発が多くなって来ている。(プロジェクトA → A' → B → B' → C) 現状:性能アップのサイクルが短くなってる。 玉突き事故的に序盤で詰まると後ろのプロジェクトにどんどん影響がでてしまう。 →製品サイクルに引きずられるタイプのデスマーチ? 例2: 親密な顧客からの案件が、費用や期間が極端に少ない・短いにも関わらず、Noと言えないプロジェクト。 →日本の極端な下請け構造による日本型デスマーチ?(ベンチャー企業など下請け構造の下部が無理を吸収している?) 例3: デスマーチの火消しが得意なことにアイデンティティを持ってる人がいる。 未然に防ぐより、火が起きてから消したがってる人がいる。 例4: デイリーレポート制度。 上司の慢性的な21:00-22:00までの残業。 日本の滅私奉公の精神が原因? 例5: 新入社員向けのテキストに「できないって言うな」って書いている。 本来は、自分でよく考えてから喋れという意味。 →ソフトウェア開発作業には厳密な終わりがない。「やるだけやった」ボロボロ感をもって「終わった」と納得せざるを得ない側面があるかもしれない。 例6: 若い世代がデスマーチを知らない →デスマーチが慢性化している証?ワークライフバランスが提唱されているが、ワークの部分はハードで当たり前の風潮 →残業をつけたくないので、早く帰らせる経済的な社会背景も影響? 例7: 個人や世代によって、幸せが多様化している。ライフステージによる変化も存在。 例:家に帰るより会社にいた方が幸せと考える人もいる 例8: 学術界のデスマーチについて。 今はホワイト企業だが、アカデミックな現場にいた頃はブラックだった。 ■まとめ デスマーチ」と呼ばれる現象が発生し、存続しているところには、それを「正しいこと」「適切なこと」として意味づけるメカニズムが必ず存在する。 一人一人が「あたりまえ」にあぐらをかくことなく、「当然のようにやっていること」の問題性への気づきを積み重ねることが、変化の原動力となる。 以上。